豆腐を作らなくなった豆腐屋

わたしがかたまりのところてんを買っていた豆腐屋の話だ。
結末を先に書くが、豆腐屋を一人で切り盛りしていたおばちゃんは、2016年、クリスマスの頃に亡くなった。店のシャッターに貼られた葬儀を知らせる告知で知った。
このまま店を閉めるかと思っていたが、年末におばちゃんの息子さんとお孫さんが店を開けた。おばちゃんが健在だった頃も、年末だけはお孫さんが手伝っていた。正月のすきやき用の焼き豆腐や糸こんにゃくがよく売れて忙しいからだ。
亡くなってすぐのその年末は、おばちゃんを弔うかのように親子で熱心に豆腐を売っていた。おばちゃんは80歳で突然死のような形で亡くなったことは、このときにお孫さんが教えてくれた。
年が明けると店が再開されることはなく、すぐに隣の飲食店が豆腐屋の部分を買ったか借りたかで拡大し、豆腐屋があったという面影すらなくなった。

わたしはその豆腐屋で10年買い物をしていた。小さな小さな店で、絹ごし豆腐、木綿豆腐、油揚げ、厚揚げを店で作り、あとはこんにゃくがある程度だった。わたしは、昔ながらの黒いこんにゃくが好きだった。1つずつビニールでパッケージされておらず、豆腐屋には一斗缶に入れて納品されている黒いこんにゃくを店頭の容器にぷかぷか浮かせながら売っていた。スーパーに売っているようなビニールパッケージがなされた白っぽいこんにゃくもあったが、わたしは「はだかのこんにゃく」と名付け、買い求めていた。

豆腐は1丁100円。素材や製法に妙な付加価値がついた1丁500円や1000円もする豆腐もあるが、じゅうぶんおいしかった。店には「国産大豆使用手づくり豆腐」という手書きの札がぶら下がっていた。
たまに徹夜をして明け方に帰宅すると、豆腐屋からもくもくと湯気が上がるのが見えた。大豆の甘いにおいを感じながら「看板に偽りなし」と一人納得して豆腐屋の横をすり抜けて家に向かった。

豆腐を作っているのだから当たり前だが、おからや豆乳もあった。おからは、ビニール袋に入れられ、昭和の時代にパン屋などの店頭にあったアイスクリームのケースに似た豆腐を入れる冷蔵庫の中に入れられていた。おからの入ったビニール袋は、豆腐を入れる冷蔵庫の上部に引っかけ、氷のうのような感じでぶら下げられていた。
たまにおからを買うときは「どのくらいいるの?」と訊かれるので、「うーん、このくらい」と、ソフトボールくらいの大きさを両手で形づくった。
おばちゃんは、豆腐の保存ケースの中からおからの入ったビニール袋を取り出し、ソフトボールくらいの分量を分けてくれた。値段がいくらだったかは覚えていないが、豆腐が100円だから安いものだった。
豆乳は、コップで量ってビニール袋に入れてくれた。
個人商店での買い物や料理に慣れていないと買いづらいシステムだが、わたしにとっては料理人が仕入れをするようなプロっぽい買い物を味わえるというか、自分自身が手練れになったような気がして楽しかった。

ある日、油揚げの形と色が変わった。おばちゃんは正直に「油揚げを作らなくなった」と言った。「仕入れている」と。そのときわたしは、豆腐屋でも一部の商品を作らないことがあるのだなあと思うくらいだった。
そしてあるときから「おからはない」と言われることが続いた。おからを料理するのは、材料を細かく切ったりそこそこ手間がかかるので、そうたびたび買わなかったので「売り切れりゃ仕方ないわな」と納得していたが、真実は違った。
豆腐自体を作らなくなっていたのだ。おばちゃんは、はっきりと「豆腐を作らなくなった」とは言わなかったが「もう、おからと豆乳はない」と言い、わたしは油揚げだけでなく、豆腐も仕入れていることを悟った。

わたしもいいかげんなもので、「スーパーの豆腐はまずくてやっこでは食べられない」などとほざいていたが、おばちゃんが作らない豆腐を食べていたことをずいぶん長い間気づかなかった。
気づかなかった理由の一つに、厚揚げだけは最後まで揚げていたというのがある。三角と四角(絹揚げ)の2種類あったが、わたしは三角が好きだった。昼になる前に買い物に行き、揚げたてに遭遇すると、規格外に小さく揚がったコロコロした厚揚げが規格品より安く買えた。小さいのでカリカリの部分が多く、香ばしくて好きだった。揚げたてならそのまま食べてもおいしかった。こんにゃくと一緒におでんのような薄味で煮て食べた。しょっちゅう食べていたが、飽きなかった。

おばちゃんが亡くなったのは豆腐を作らなくなってから1年くらいあとだ。
おばちゃんは、個人商店にありがちな独善的でイヤな感じが一切なく、淡々としていて口数も少なかったが「若いころはたくさん食べたし、もっと太っていた」と突然話し出したことがある。たぶん、わたしがこんにゃくをよく買うので「こんにゃくは太らない」みたいな話がきっかけだったと思う。
わたしの年齢くらいだったころを思い出したのだろうか。元気に豆腐をつくり、今よりもたくさん売れて、活気があった頃――。
継ぐ人がいないのは明白だったのに、なぜ、豆腐を仕入れてまで店を続けていたのだろう。豆腐を作るような負担の大きいことはやめざるをえなくても、できることだけは最後まで続けたかったのだろうか。
おばちゃんの心はわからない。
わたしから見た真実は、おばちゃんは「死ぬ直前まで仕事を続けた」ということだ。とてもあこがれる。