ネコが死んで2年。気持ちの変化

2000年7月、ウチの子になってちょうど1ヵ月。時代をよく現した写真でもある。iMacとその右にあるのはISDNに接続する機械(機械の名前も忘れてしまった)。
当時はパソコンラックというものがあって、キーボードはスライド式の台に置き、一番上にはプリンターが置けた。そのうちパソコンもデスクの上に置くようになって、パソコンラックは物置になり、引っ越しを機会に処分した。

わたしのネコが死んで2年経った。

ネコの闘病についてのブログでも書いたが、死んだときは喪失感よりもホッとした気持ちが強く、またガンの症状が悪くなってからの闘病期間が9ヵ月と長かったので、同じような経験を二度としたくないという気持ちが強く、新しいネコを迎えようとは思わなかった。

ネコが痛みで鳴いているのに出かけなければならないときは「なんで、17年前にネコを引き取ると言ってしまったのだろう。自分のバカバカバカ」みたいに、過去の自分を責める気持ちも強かった。

ネコを気にせず留守にできるし……と自由を謳歌できると思っていたが、ネコが死んでからは仕事以外で泊まりがけの旅行なぞ行っていないし、家にいることも増えた。白い服のかたまりや生成りのキャンバスバッグがネコの幻影に見えたことは何度もあったけれど、ネコを迎えようと積極的には動かなかった。たまに「もう飼わないの?」と質問されたが「今は考えられない」と答えていた。

今。ネコを迎えたいなあ、とはっきりではないがぼんやり思っている。だが、過去の反省をふまえて、かつ、ネコの最期を看取るときに「過去の自分バカバカバカ」と自分を責めないための予防策として、さまざまな条件を自分で勝手につけている。ペットショップでお金を出してネコを迎えることは一切考えていないので、ネコを迎える手段としては以下の2パターン。

1.ネコを拾う

2.知人などを介して保護ネコなどを譲り受ける

自分で勝手に縛りをかけているのは「ネコが欲しいと積極的には働きかけない、動かない」ということだ。たとえば、保護ネコカフェに足繁く通ったり、ネコ友達に「ネコを飼いたいと思っているんだけど」と意志を明確にしないということ。

「ネコねえ、どうしても……みたいな状況になれば飼いたいと思っているんだけど」というあいまいな言い方をしている。

ズルいと思う。卑怯だ。でも、ムダな後悔をしないためだ。

わたしにとって理想は、道ばたで子ネコを拾うことだろう。何匹もいるとそれはそれで困るのだが、1匹なら迷わず拾って獣医に連れて行く。そして、ビニールに包んでタンスや本棚の上に置いてあるトイレなどのネコグッズを引っ張り出し、子ネコ用のあれこれも買い足す。

そんなシナリオを考え、ネコの声が聞こえないか耳を澄ませながら公園などを歩くが子ネコはいない。

子ネコではなく、おとなの保護ネコを迎える選択肢もあるが、正直なところ子ネコのかわいさを20年ぶりに堪能したいという欲深い思いもある。

密かなネコ活動ではあるが、動きがあればブログに書くし、またネコがわたしのもとに来てくれたらここはネコブログになると思う。

人生経験も長くなると何でもかんでも積極的に動くのではなく、「運命を待つ」心の余裕が生まれる。トシをとるのも悪くない。

突然話が変わるが、昨日の吉本興業の社長の記者会見を見て、社長の年齢がわたしより少し下だったことがいちばんのオドロキであった。

自分自身が人に見られているイメージというのは、実際よりかなり若いのであろう。わたしはきっと5年くらい下の外見をセルフイメージで持っていると思う。

トシをとるのも悪くないなんてありきたりのことをつぶやいて気どっていても、トシをとっているのは事実で、ネコを迎えられるのもあと2~3年の間だと思う。

わたしがまだネコと暮らすことが運命なのであればよきめぐり合わせが訪れることを願っている。大げさだけど。

なぜこんなにネコトイレがあるのかを思い出すと悲しいのだが、捨てられずにいるネコトイレ。6個も要らないんだけれど。
子ネコが来たらネコ砂は大きめの粒ではなく「小さめの粒」が必要かしら……などと思う。爪とぎなんて高いものでもないのに、捨てられずに本棚の上に。